サッカー部 MUSANISTA #90 『 夢 』

 

「夏の甲子園」の中止決定 戦後初

 日本高校野球連盟は20日、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で8月10日に開幕予定だった第102回全国高校野球選手権大会について、地方大会も含めて中止することを決めた。大会の中止は戦後初。今春の第92回選抜高校野球大会も史上初めて中止となっている。また、今夏の全国高校軟式野球選手権大会も史上初の中止が決定した。

 日本高野連は、感染防止対策として、無観客開催や開会式を行わないことなども検討したとしたうえで「開催期間が2週間以上に及ぶこと、代表校が全都道府県から長時間かけて移動することなどを考慮すると、感染と拡散のリスクが避けられない」と理由を説明。地方大会についても、休校や部活動停止などが長時間に及んでいることを挙げ、十分な練習を積めていないことによるけがのリスクや学業の支障になりかねないことから実施は困難と判断した。

 大会は、全国中等学校優勝野球大会として1915年に始まった。夏の大会の中止は米騒動があった18年の第4回大会と、戦争の影響を受けた41年の第27回大会の2回あり、今回で3回目。42~45年は戦争の影響で中断された。全32校の出場が決まっていた今春の選抜大会は一時無観客開催も視野に入れたが、開幕8日前の3月11日に感染拡大の収束が見通せないとして中止を決定した。

5月20日 毎日新聞 ONLINEより

 

夏の甲子園の中止を決定 高野連、コロナ禍で開催断念

 日本高野連(八田英二会長)が新型コロナウイルスの感染拡大を受け、甲子園球場(兵庫県西宮市)で8月10日に開幕予定だった第102回全国選手権大会の中止を決めたことが20日、関係者への取材で分かった。この日正午からオンライン形式で大会の運営委員会を開いて決定した。続いて行われる理事会で正式決定する。今春の選抜大会も史上初めて中止されており、甲子園大会が春夏とも開かれないのは戦時中を除けば初めて。

 全国の新規感染者数は大幅な減少傾向にあるが、大会には全国からの生徒の移動や宿舎での長期間の集団生活が避けられず、感染リスクが高いことが開催断念の大きな要因になったとみられる。また、政府の緊急事態宣言を受けて部活動を再開できる時期が不透明な地域もあり、49代表校を決める地方大会を選手権大会開幕までに全て終えるのは難しい状況になっていた。

 今夏に開催予定だった東京五輪・パラリンピックが1年延期されるなど、コロナ禍の影響は多くのスポーツイベントに及んでいる。高校スポーツでは今春の選抜大会のほか、選手権大会と同時期に東北から九州の21府県で分散開催する予定だった全国高校総合体育大会(インターハイ)も4月26日に中止が決まっていた。

 大正4(1915)年から100年を超える歴史をもつ大会は、戦時中の昭和17~20年の中断のほか、米騒動が起きた大正7(1918)年の第4回大会と、先の大戦の戦局が悪化した昭和16年の第27回大会が中止されたことがある。

5月20日 産經新聞 THE SANKEI NEWSより

 

夏の甲子園大会は中止 代表49校を決める地方大会も

 全国高校野球選手権大会を主催する朝日新聞社と日本高校野球連盟は20日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、今夏の第102回全国選手権大会と、代表49校を決める地方大会の中止を発表した。この日オンラインで開かれた運営委員会で決定し、日本高野連の理事会で承認された。

 全国大会の中止は、米騒動があった1918(大正7)年の第4回大会、戦争の影響を受けた41(昭和16)年の第27回大会に続き、3度目。42~45年は戦争のため中断していた。記者会見で、大会会長の渡辺雅隆・朝日新聞社社長は「最後の夏を迎える3年生のためにも集大成の場になる試合を設けられないか、ぎりぎりまで検討したが感染拡大防止の取り組みが長期化し、第2波、第3波を指摘する専門家もいる。安全を最優先に考えた判断だった」と話した。日本高野連の八田英二会長は「高校野球を教育の一環とする限り、球児の心身の健全な発育と安全の確保は最優先課題。残念ながら、中止という選択をせざるを得なかった。本当に悔しい思いだ」と語った。運営委員では、感染症に詳しい専門家の助言をもとに、全国大会で感染リスクを高める「3密」(密閉・密集・密室)を避ける対策を検討。試合を無観客開催にし、組み合わせ抽選会や開会式の取りやめなどを想定してきた。しかし、代表校の長時間移動や集団での宿泊などを考慮すると、感染と拡散のリスクを避けられないと判断した。また、選手権大会は全国大会と地方大会で構成されるひとつの大会で、感染拡大の影響で49代表がそろわない可能性もあった。地方大会については、政府の緊急事態宣言は14日に39県で解除されたものの、全国的に休校や部活動の停止が長期化。練習が十分でない選手の安全と健康を守ることが難しい。また、夏休みの短縮で登校日を増やす動きがあるなか、大会の開催は学業の支障になりかねないと判断した。これらを踏まえ、全国大会および地方大会の中止を決めた。大会回数は第102回として数え、来年の大会は第103回となる。

 高校野球では感染拡大の影響で、3月の第92回選抜高校野球大会が中止に。春季大会は全国9つの地区大会すべてと46の都道府県大会が開幕前に取りやめとなり、全国で唯一実施された沖縄県大会は無観客で開催したものの、準決勝以降が打ち切りとなっていた。また、日本高野連は8月に兵庫県明石市などで開かれる予定だった第65回全国軟式野球選手権大会と代表16校を決める地方大会、府県大会の中止も発表した。全国軟式選手権の中止は初めて。

5月20日 朝日新聞DIGITAL より

 

夏の甲子園大会 記憶に残る名勝負5戦

1. 1998年 準々決勝 横浜高校(神奈川) vs PL学園(大阪)《延長17回の死闘

 1998年の高校野球界の話題をさらったのは、横浜高校の「松坂大輔」だった。圧倒的なピッチングで春の選抜大会で優勝した後の夏の全国選手権大会、準々決勝でPL学園と対戦する。当時の横浜高校は、松坂に支えられ、公式戦44戦無敗の金字塔を打ち立てたチーム。彼を最も苦しめたのがPL学園だった。序盤で3点を先制して試合を優位に進めていく。しかし、そこは最強ピッチャーとうたわれた松坂。失点を重ねるも要所は締めるピッチング。延長戦に突入してからも味方の援護もあり、15回裏を終えて6-6。16回表に執念で横浜が勝ち越すも、その裏にPL学園が再び追いついて7-7。17回表に2点を奪い横浜が突き放す。その裏、最後の打者を松坂が三振に仕留めてようやくゲームセットを迎えた。試合時間337分、松坂の投球数は250球を超えていた。この試合を機に、延長に関する規定が見直され、延長戦はそれまでの18回から15回までという変更がなされることになった。

2. 2007年 決 勝 佐賀北高校(佐賀) vs 広陵高校(広島)《がばい旋風

 2007年の決勝は、ドラマティックな幕切れが待っていた。広陵の久保投手の好投もあり、佐賀北は7回までに打ったヒットがわずか1安打のみと完璧に抑えられていた。一方で広陵に4点を奪われる苦しい展開。しかし、転機は8回に訪れた。久保投手が前触れもなく制球を乱し、1死満塁のチャンスを迎えたのだ。続くバッターが押し出し四球を選び1点を返す。追撃ムードの佐賀北は、この満塁のチャンスでなんと続くバッターが打ったボールは風に乗り見事にスタンドイン。逆転満塁ホームランとなり、あっという間にスコアをひっくり返し5-4。そのまま反撃を許さず、初の全国制覇を達成したのだ。開幕戦に登場し、初戦がなんと延長15回引き分け再試合。再試合でも延長戦を制して延長サヨナラ勝ち、2回戦に進出し、そして劇的な決勝。数々の熱戦を演じ、この大会を大きく盛り上げた。当時流行した「佐賀のがばいばあちゃん」になぞらえ「がばい旋風」と呼ばれる旋風を巻き起こした伝説のチームだ。

3. 2006年 決 勝 早稲田実業高校(東京) vs 駒大苫小牧高校(北海道)《ハンカチ王子

 2006年の甲子園をわかせたのは、早稲田実業の「斎藤佑樹」投手。ポケットに汗を拭うハンカチを仕込ませていたため「ハンカチ王子」というあだ名が付いていた。駒大苫小牧の田中将大(現ヤンキース)との壮絶な投げ合いを演じたのが今大会決勝だった。1-1のまま双方譲らず延長15回で引き分け再試合が決定。翌日の再試合。前日の疲労を考慮して駒大苫小牧は田中将大を温存するも、初回に1点を失ったところですぐにマウンドに上がる。一方の斎藤佑樹投手は先発としてマウンドに立ち、執念で投げ続けた。試合は早稲田実業が4-1でリードしたまま終盤に突入。駒大苫小牧にとって最後の攻撃となる9回表にドラマが待っていた。ホームランで2点を奪い1点差に迫ったのだ。2アウトとなり最後のバッターは田中将大。鬼気迫る表情でバッターボックスに立った田中だったが、最後は齋藤投手が三振に仕留めてゲームセットを迎えた。2日間に及ぶ見応えのある投手戦に、満員のスタンドからは万雷の拍手が響いていた。

4. 2009年 決 勝 中京大中京高校(愛知) vs 日本文理高校(新潟)《野球は9回2アウトから

 『野球は9回2アウトから』という言葉は、「諦めない精神の象徴」とも言える野球界の金言だ。2009年の決勝戦はこの言葉の大切さをかみしめた一戦となった。中京大中京高校打率5割超のエース・堂林を中心に得点を量産。対する日本文理も抵抗を見せるも追いつくには至らず、10-4と6点リードを許したままで最終回に突入する。すぐに2アウトを奪われ崖っぷちに立たされた日本文理。しかし、ここから奇跡が始まる。四球からの2連打で10-6。続く打者に死球を与えたところで中京大中京は投手交代を決断。しかし、重圧に耐えられず最初の打者に四球を与えると、続くエース・伊藤が2点タイムリーを放ち10-8。いよいよあと2点差にまで迫る。球場全体の異様な盛り上がりに完全に呑まれた中京大中京ナインは立て直しができず、代打の石塚選手にタイムリーヒットを打たれ、スコアは10-9に。スタンドもミラクルを期待するが、最後の打者の強烈なライナーは三塁手のグラブに収まりゲームセット。あと一歩及ばなかったが、奇跡を見た一戦となった。

5. 2006年 準々決勝 智辯和歌山高校(和歌山) vs 帝京高校(東京)《史上稀にみる乱打戦》

 夏の甲子園史上稀に見る乱打戦となったのがこの試合だ。両チーム合わせて7本のホームランが飛び出す、派手な試合展開になった。7回を終えた時点で4本のホームランで帝京を攻略していた智弁和歌山が8-2で6点リードを奪っていた。追いすがる帝京は、8回表に2ランホームランでスコアは8-4に。続く9回表、2アウト1&2塁から4連打で3点を奪い1点差に詰め寄ると続く打者がタイムリーを放ち、ついに同点。後続打者は3ランホームランで逆転に成功する。6連打で8点を奪い逆転した帝京は8-12で9回裏を迎える。しかし、代役の投手がおらず、外野手がマウンドに上がらざるを得なかった帝京。連続四球でいきなりのピンチを背負うと、続く打者が打ったボールはスタンドイン。3ランホームランでスコアを11-12にまで戻し1点差に迫る。ここからまた四球と死球で2人が出塁。続く打者がセンタ―前タイムリーヒットを放ち、智弁和歌山がなんと12-12の同点に追いつく。この後、さらに出塁を許し1アウト満塁。交代投手がいない帝京、イニングの途中では立て直しが効かず、最後は押し出し四球で13-12。意外な形で乱打戦に終止符が打たれた。

 

 

今年の夏は、高校生たちの夢を追うあの眩しい姿が見られないのか・・・。

 

「栄冠は君に輝く」 作曲:古関裕而 作詞:加賀大介

  雲は湧き 光あふれて

  天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ

  若人よ いざ まなじりは 歓呼に答え

  いさぎよし 微笑む希望

  ああ 栄冠は 君に輝く

 

  風を打ち 大地を蹴りて

  悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ

  若人よ いざ 一球に 一打に賭けて

  青春の 讃歌を綴れ

  ああ 栄冠は 君に輝く

 

  空を切る 球の命に

  通うもの 美しく匂える健康

  若人よ いざ 緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす

  感激を 目蓋(まぶた)に描け

  ああ 栄冠は 君に輝く

 

 作曲した古関裕而は、他にも「ドラゴンズの歌(青雲たかく)」「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」「巨人軍の歌(闘魂こめて)」「オリンピックマーチ」など数多くの応援歌、行進曲の作曲も手掛けている。偶然にも、今年1月に行われた全国高校サッカー選手権大会決勝戦のカードだった静岡学園高校と青森山田高校の校歌の作曲者でもある。

 作詞した加賀大介は、生前一度も甲子園球場を訪れなかったのは有名な話。以下「知られざる『全国高校野球大会歌』誕生秘話」より引用。

 

 1948年、甲子園は30回大会を迎えるにあたり、大会歌を新聞紙面で募集した。作曲は、阪神タイガースの「六甲おろし」早稲田大学の応援歌「紺碧の空」などを作曲した古関裕而。賞金は5万円、当時の甲子園の給与の10倍以上であった。5252編の応募の中から選ばれたのは加賀道子、女性であることが新しい時代を感じさせ、採択の理由のひとつであった。当時、金沢市の郵便局員だった彼女のもとには取材が殺到した。作詞者として甲子園への招待は事あるごとに届いたが、頑なに断り続けていた。50回の記念大会を控えた1968年2月、道子は取材を通じて真実を告白する。本当の作詞者は夫であると。「栄冠は君に輝く」の作詞者を妻の名で応募したのは、賞金稼ぎだと思われることを嫌ったためであった。加賀大介は、仕事仲間との野球を楽しんでいた最中の怪我が原因で、片足を切断する手術を受けた。まだ、麻酔の技術も発達していない当時、早慶戦をラジオで聞いて、痛みを忘れようとした。それほどの野球好きだった。野球ができない体になった後、文学賞をとって東京に行くという目標をもった。それが文学を志した加賀大介にとっての甲子園に値する、人生をかけて追い求めたことであった。しかし、当の本人には稼ぎはほとんどない、自宅にずっといるのだが、子育ても家事もまったくしない、不器用で頑固な性格で、文学のみにすべての情熱を注ぐ。ペンネームだった「加賀大介」を自身の本名に改名するほどだ。もちろん、その変更をいやいやながら、すべてを手伝ったのは道子。被害を受けたのは二人の子供たち、名字が一夜にして変わったのである。作詞者であることが公開された後、甲子園からは記念大会のたびに招待が届いたが、一度たりとも足を運ばなかった。それどころか、生前、娘には一度たりとも、自分が作詞したと語らなかった。死の直前に自身でプロデュースした葬式でも曲を流すことをよしとしない頑固さ(甲子園の閉会式では「栄冠は君に輝く」にあわせて優勝校・準優勝校が行進したあとに、「蛍の光」を歌う。その「蛍の光」を自身の葬儀での曲に選んだ)。徹頭徹尾、亭主関白を押し通しながら、最期まで文学賞をとることを夢見た大人げない永遠の文学青年であった。しかし、最後まで自分の欲した舞台で栄冠に輝くことはなく、その生涯を終えた。加賀大介死後の翌年、一昨年の100回記念大会で始球式をおこなった男が同じ町内に誕生した。甲子園での5連続敬遠で負けて名を上げた、松井秀喜である。その男は、加賀の魂を受け継いだかのような活躍をその後、世界の人々に見せることとなる。