MUSANISTA -活動日誌-

サッカー部 MUSANISTA #128 『 愚直な闘将 』

 

 この険しい表情のサッカー選手をご存知ですか。私が大好きなサッカー選手のひとり、小笠原満男選手です。2018年シーズンで21年間に渡るプロサッカー選手を引退されてしまいましたが、日本サッカー界においては「黄金世代」と呼ばれる年代のひとりで鹿島アントラーズ黄金期を築き上げた選手です。小笠原選手と言えば、個人的にはやはり2001年シーズンのチャンピオンシップ。ジュビロ磐田との第2戦で90分間を戦い両チームとも0-0のまま延長戦に。当時の延長戦はゴールデンゴール方式(前後半を戦わずとも先に得点したチームの勝利)で行われていましたが、延長前半10分に決めた決勝ゴールの直接FKは、20年が経った今でも鮮明に覚えています。

 私が小笠原選手のことが好きな理由は、華麗な技術だけではありません。別の面にあります。次の文章は2019年1月にNumber Webに掲載されたもので、小笠原選手が小笠原選手である所以がよく表れています。以前のブログで「偉大な先人から見習うべきは、華麗なプレーだけではない」と書かせてもらいましたが、小笠原選手からも見習うことは沢山あると思います。

 

 

ー小笠原満男はいつも正直だった。悔しさを胸に戦い続けた男の引退。ー

◇職人のような人間臭さ。

 天邪鬼ともちょっと違う(その一面もあるかもしれないが)。勝つための仕事ができなかったときは、何を言っても言い訳になってしまうと考えている。だから、そういうときは話したくはない。逆に手放しに称賛されても自分が納得できていなければ、無邪気に受け入れることはできない。そんな小笠原に対して、「プロとしてどうなのか?」という声もあったのは事実だ。確かにそうかもしれない。

 それでも、私は昔かたぎの職人のような彼の人間臭さが好きだった。サッカー選手として誠心誠意ピッチ上での仕事と向き合う。だから、仲間たちからの信頼は厚い。対戦相手からすれば、手強く、悪役のような存在になったのも、自分の仲間、クラブへの忠誠心と勝利への貪欲さゆえ。そのことを改めて痛感する、そんな引退会見だった。

◇ベンチ外続きで「最後だな」。

 「自分がピッチに立って勝ちたいという想いがすごく強いので、それができなくなったときは、やめるときだと決めていた。だから、引退を決断するうえで、葛藤はなかったです。今季(2018年シーズン)ベンチ外が続いたときに、なんとなく、最後だなという気持ちが徐々に芽生えてきた。もちろん、その日が来ないように、少しでも長く頑張るという気持ちでやってきましたけど。シーズン終盤に試合で使ってもらえる機会も増えたんですけど、正直それは、同じポジションの選手が怪我をしたり、出場停止だったから。それなら若い選手、これからの選手が出るべき。アントラーズが強くなっていくために、自分が身を引くときがきたなと。膝の怪我が原因で引退を決めたという報道がありましたが、それは事実ではなくて、練習もしていたし、試合に出る準備はしていたけれど、出られなくなったから」

 8月中旬からリーグ戦6試合連続でベンチ外が続いた。ACLを勝ち進んで過密日程が続くなか、小笠原の心のなかに「引退」の文字が浮かんだのだろう。

◇中田、柳沢、本田の姿。

 しかしその胸の内を誰かに相談することはなかったという。そんな彼を支えたのはかつてクラブに所属したOBたちの姿だった。

「自分がいざ辞めるとなったときに、すごく感じたのは、偉大なOBの方々が最後までこのチームでやり遂げたという姿を見てきたので、自分もそれをするべきだと思いました。自分がなかなか試合に出られなくなって、ベンチから外れることもあったときに感じたのは、中田浩二の姿であり、柳沢(敦)さんや本田(泰人)さんの姿でした。中田浩二は最後のシーズン、なかなか出場機会がなかったけど、練習を1日も休むことなく、最後の最後までやったのを見ていたので、自分もそうすべきだと。もちろん悔しさもあるけれど、自分の気持ちとは関係なく、チームのためにやるというのは、最後の最後までやり通したかった。(大岩)剛さんには『特別扱いはしないでほしい』ということをずっと言ってきた。(現役時代から)剛さんの背中を見てきたこともあるし、剛さんだから我慢できたこともありました。本当に感謝しかない」

◇偉大なOBを真似しただけ。

 鹿島アントラーズに加入して以降、ずっと先輩たちの背中を見ながら成長してきた。最後も同じだったのだろう。

 「自分がやってきたことというのは、偉大なOBたちの真似をしてきただけなので。いいときも悪いときもどういう振る舞いをすべきかというのを、先輩たちから見て学んできた。OBたちが素晴らしかっただけで、自分が誇れることはない」

 出場機会を失ったベテランが他クラブへ移籍することは特別なことではない。鹿島アントラーズでも秋田豊や柳沢敦をはじめ、新天地へ挑戦した選手は多い。しかし、他クラブへ移籍して、プレーするという選択肢は小笠原にはなかったという。「他のクラブでやりたいというのは、まったく思わなかった。やっぱりここで、勝ってきたのが面白いし、タイトルを獲ってきたのがやり甲斐だった。他のチームでやるよりも、違う形でチームに恩返ししたいという気持ちが強くなった」

◇ゴールよりもPK失敗の記憶。

 そして、引退会見ではお馴染みの「記憶に残るゴールは?」という質問に対する答えが、まさに小笠原の本質を表現していた。

 「ゴールではないのですが、ナビスコカップ決勝のPK戦で僕がキーパーに止められ、失ったタイトルの印象が強く残っている。自分のインサイドキックのミスで負けてしまい、いろんな人の想いやいろんなことすべてが変わってしまった。ジーコからずっと、『PK戦は運ではなく、120分、90分間戦い抜いて、ボロボロの足の状態でも狙ったところに強いボールを蹴らなくちゃいけない。だから、練習でのインサイドキック1本でも真剣に蹴らなくちゃいけない』とずっと言われていた。それを身をもって感じました。練習から意識してやっていかなくちゃいけないし、クラブW杯でも思ったんですけど、止めて蹴るというのは、すごく大事だし、その精度をあげていかなくちゃいけない。なんとなくやった“止めて蹴る”と、高い意識でやるのとでは、だいぶ差がついてくると思うので」

 1999年のナビスコカップ決勝の柏戦でのPK戦。最後のキッカーだった小笠原のキックが止められて敗れた。その悔いをずっと背負い戦ってきたのだろう。

◇W杯予選での決勝ゴールも…。

 そして、ジーコジャパンを救ったとも言われるワールドカップドイツ大会アジア最終予選バーレーン戦での決勝弾についても「あれは小野伸二のゴール」と言い切った。

 「思い出深いゴールではありますけど、ずっとレギュラーだった伸二が直前に怪我をしての出場だった。自分としては複雑な想いがありました。伸二はいつか追いつき、追い越したいと思い続けてきた選手。その選手の怪我で代わりに出るというのは、思うところはあるんですけど、伸二は『ミツ、頑張れよ』と言ってくれた。悔しかったと思うんですけど。だからあれは、本来なら伸二が決めるゴールだったと思う。小野伸二の魂が宿りました。それだけ伸二には思い入れがあるので、頑張ってほしいですね」ゴールデンエイジと言われる1979年生まれの小笠原。1995年のU-17世界選手権メンバーでもあったが、彼の前には常に小野をはじめ、稲本潤一や酒井友之、そして中田浩二、本山雅志などのライバルたちがいた。1999年ワールドユース(現U-20W杯)の準優勝メンバーではあるけれど、2000年のシドニー五輪はメンバー外だった。日本代表でも中田英寿や中村俊輔など、ライバルをあげればキリがない。「彼らに負けられないという想いでやってきたので、彼ら、ライバルの存在が僕のモチベーションでした。そういう人達から、学ぶこともいっぱいあった。同期の曽ヶ端、本山、中田浩二や他クラブなら伸二や稲本の存在は大きいし、そういう人と一緒にやれたのは幸せなことでした」

◇逃したタイトルが何十個も。

 そんな小笠原にとって公式戦ラストマッチとなったのが、クラブW杯3位決定戦、リーベルプレート戦。2点差をつけられた76分、小笠原は内田篤人に代わりピッチに立った。

「最後の試合という特別な想いはなく、ただ、なんとか点をとって、勝ちたかった。やっぱり、最後にクラブW杯に優勝して終わりたかったので、悔しかった。でも、そういう想いで終わるのも自分らしいのかなって。悔いだらけです。獲ったタイトルもあるけど、獲れなかったタイトルが何十個もあるので。今年に限っていっても、ACLは獲れましたけど、ルヴァンも取れなかったし、JリーグもクラブW杯も取れなかったし。悔いばっかりです。代表でも悔しい想いをいっぱいしたし。自分の人生は悔しい、悔しいの連続で、ライバルもいたし、負けたくない、そういう想いで突っ走ってきたなって思います」

 11月のACL決勝戦前後に組まれたJリーグ対セレッソ大阪戦と、柏レイソル戦に小笠原は先発し、控え組の若い選手を率いて2連勝と、決勝戦へ挑むチームをあと押ししている。「あのとき、まだやれるという想いは芽生えませんでしたか?」と訊いた。「そういう変な感情はなかった。今だからこそ言うけれど、正直ACLに出たかった。それは僕だけじゃなくて、若い選手たちもそうだと思う。そう思うべきだし。でも、与えられたJリーグの試合で、今までベンチ外で一緒に練習した若い選手たちといっしょに戦って、やっぱり勝たせてあげたかった。彼らがどう思っているかわからないけれど、ピッチに立つこと、そこに立って勝つということを示したかった。そこで勝てたというのは、チームの財産になるのかなって思うし、みんなで勝つことができて良かったですけど、本音はACL決勝に出たかったです」果たした任務の達成感以上に、悔しさがまた募っただけだった。

◇印象的だった鋭い瞳。

 鹿島に加入した直後も、U-19の合宿でも、小笠原はにぎやかな選手たちを少し離れた場所で見つめている東北出身の寡黙な少年だった。印象的なのはその鋭い瞳だ。

 ピッチに立てばギラギラとするのだろうが、なにかを射抜くような瞳は、油断とは無縁の飢えた獣のように見えることもあった。そんな少年は、いつしかクラブの大黒柱に成長した。寡黙さは相変わらずなのかもしれないが、チームの中心に立つ太い柱となり、鹿島アントラーズの25年間を繋いだ。

 現役引退会見で、獲れたタイトルの数よりも獲れなかったタイトルの数を数える。それが小笠原満男だ。だから、彼はたくさんの勝ち点を奪い獲り、タイトルを手にしたのだろう。

◇みんなで喜ぶ瞬間こそ幸せ。

「鹿島アントラーズの全部が好きですね。しいて言えば勝ちにこだわり、みんながひとつになって、タイトルへ向かうところ。そこがすごく好きです。、何よりもタイトルを獲って、みんなで抱き合い喜ぶあの瞬間が、一番報われるときで、幸せを感じる瞬間なので。絶対にこのチームはタイトルを獲り続けなくちゃいけない。だから、普通のチームになっちゃいけないと思う。ずっとタイトルを獲り続けて、強くなってきたチーム。急に強くなったわけじゃないし。いろんなものを積み重ねてここまで来た。今後もタイトルを獲って、どんどん積み重ねてほしいから。今度は違う形でそれに関わりたい」

 悔しさを笑顔でごまかすことはしない。悔しいという想いをポジティブな力に変えてきた。勝利にこだわり、球際での強さを発揮できるのは、鹿島アントラーズへの忠誠心とクラブ関係者、サポーター、仲間に対する誠意の表れだ。そして、自身の飢えを埋めるためなのだろう。

 現役を引退し、立場が変わっても、勝利への渇望はこれからも続いていくに違いない。

2019年1月8日 Number Web(寺野典子氏)記事より

 

サッカー部 MUSANISTA #127 『 サッカーの雑学』

 今日はサッカーの雑学について、少しご紹介しようと思います。

〇サッカーの試合はなぜ90分なのか
 サッカーの試合時間が90分と決められたのは、イギリスでサッカーの選手権大会(FAカップ)がはじめて開催された1871年のことだそうです。それまでは、双方の合意で決めたりしており、延々三時間も続いたり、どちらかが勝つまで延長戦を繰り返したりということがあったそうです。この大会が90分と決まった以降は、それ以降の変更もなく、今日に至っています。
 ちなみに、当時はロスタイムはなく、何があろうと試合は90分ちょうどで終わったそうです。たとえば、1対0で負けていたチームが、終了間際に、ペナルティキックのチャンスを得たとしても、ボールを取りに行っているうちに時間が過ぎたら試合終了だということです。こんなことがじっさい1891年の試合であり、そこからロスタイムは採用されるようになりました。

〇サッカーのスローインは、なぜ両手でやるのか
 サッカーでは、ボールがタッチを割ると、両手でボールを投げ入れて競技を再開します。これが「スローイン」ですが、当初、このスローインは、両手ではなく片手投げでした。これが両手になったのは、1882年のこと。イギリスのウィリアム・ガンという強肩の選手の登場で、ルールが改正されたのです。クリケットの選手でもあったガンは、片手投げで60ヤード(約54メートル)もボールを投げることができました。こうなると、肩の強い選手がいるチームにとって、スローインは強力な攻撃の武器になります。なにせ当時は、スローインから直接ゴールを狙うこともできたのですから。しかし、こんな点の取り方が可能では、もはやサッカーではなくなってしまいます。かくして、スローインの攻撃性を弱めるために両手で投げ入れるルールが採用されたのです。ちなみに、現在のルールでは、「スローインから直接ゴールに入った際の得点」は認められていません。
 また、今回の全国高校サッカー選手権では、SNS上でロングスローを巡る論争が話題となりました。スローインを文字通り放り込むパワープレーが議論の的となりました。今後どのような戦術や対応が生まれてくるのか楽しみですね。

〇なぜ「サイドライン」ではなくて「タッチライン」と呼ぶのか
 サッカーやラグビーでは、ピッチの横のラインを「サイドライン」といわずに「タッチライン」と呼びます。何かに触れているわけでもないのに、なぜ「タッチ」というのでしょうか?その由来は、19世紀半ば、イギリスのパブリックスクールで、サッカーの原型となるフットボールが盛んにおこなわれていた時代にさかのぼります。当時は、ボールがサイドラインの外に出てしまったときは、外に出たボールを、誰よりも早くタッチした選手がスローインの権利を得ていたそうです。そんなことから、ラインの外側を「タッチエリア」と呼び、ピッチとの境界線を「タッチライン」というようになったそうです。

 出典;Webサイト『雑学トリビア王』より
https://m-mom.net/archives/1451
https://m-mom.net/archives/1453
https://m-mom.net/archives/1455

 

〇サッカーボールはなぜ白黒になったのか
 もともと、サッカーボールは革で作ってあることが多く、茶色であったことが多かったそうです。現在の白黒のサッカーボールになったのは、1968年のメキシコオリンピックからで、TVの普及が原因だそうです。当時のTVは白黒で、茶色一色のサッカーボールでは、白一色になり見えにくいという事態が起こってしまったんだそう。白い色を多めにすることで黒色が浮いて立体的に見えるのでTVでも見やすくなりました。また、「回転が見やすい」とか、「土のグランドでも見やすい」という理由も、白黒のサッカーボールが普及する原因になったそうです。

出典;Webサイト『Activeる!』より
https://activel.jp/football/PqKav

 

 サッカーの雑学、歴史に触れてみると、サッカーというスポーツに対して新鮮な目で見ることができますね。再度、サッカー部が開始できる日を楽しみに、その日を待ちたいと思います。

サッカー部 MUSANISTA #126(#118) 『 虚実 』

 皆さんは、「虚構新聞」の存在をご存知ですか。2004年から始まりもう20年近く続いているものですが、実際にありそうで実は存在しないネタをニュースとして掲載している個人運営のテキストサイトです。その趣旨は「読者にクスッと笑ってもらいたい」という思いからだそうですが、最近では、見出しから「明らかに虚構だ」とわかるように工夫をして、誤解を生まないようにしているといいます。たとえば、こんな感じです。

 

ー 漢字「傘」など使用自粛要請を検討 社会的距離を確保できず ー 2020年4月10日 記事

新 型 コ ロ ナ ウ イ ル ス 感 染 対 策 と し て 、 「 傘 」 や 「 卒 」 な ど 一 部 の 漢 字 に つ い て 、 政 府 が 使 用 自 粛 の 要 請 を 検 討 し て い る こ と が 1 0 日 ま で に わ か っ た 。 こ れ ら の 漢 字 は 、 中 に 含 ま れ る 「 人 」 と 「 人 」 と の 間 隔 が 狭 く 、 感 染 防 止 に 必 要 な ソ ー シ ャ ル ・ デ ィ ス タ ン シ ン グ ( 社 会 的 距 離 ) が 確 保 で き て い な い こ と が 主 な 理 由 。

 自 粛 要 請 の 対 象 と す る 漢 字 は 「 傘 」 「 卒 」 「 俎 」 な ど 1 0 字 前 後 で 調 整 し て い る 。 ウ イ ル ス の 感 染 拡 大 を 防 ぐ た め に は 、 人 と 人 と の 間 隔 を 2 メ ー ト ル 以 上 空 け る 「 社 会 的 距 離 」 を 保 つ こ と が 効 果 的 と さ れ る が 、 こ れ ら の 漢 字 は い ず れ も 人 の 文 字 が 密 接 に 隣 り 合 う 危 険 な 状 態 だ 。

 今 の 状 況 の ま ま 放 置 す れ ば 、 感 染 し た 「 人 」 が 漢 字 の 中 か ら 脱 落 す る な ど 漢 字 崩 壊 を 招 く お そ れ が あ る こ と か ら 、 感 染 が 収 束 す る ま で は 、 原 則 的 に 「 か さ 」 「 カ サ 」 の よ う に か な 表 記 に 置 き か え る よ う 要 請 。 ま た 、 使 わ ざ る を 得 な い 場 合 で も 、 人 の 部 分 を 2 メ ー ト ル 以 上 離 し て 書 く よ う 強 く 呼 び か け る 方 針 だ 。

 お こ と わ り : 社 会 的 距 離 を 保 つ た め 、 文 字 間 に 適 切 な 間 隔 を 空 け て 記 事 を 掲 載 し て い ま す 。 あ ら か じ め ご 了 承 く だ さ い 。

 

 あるテレビ番組の取材でサイト運営者本人が語っていたことが印象的でした。

 取材者:虚構とフェイクには違いがあるのでしょうか?

「フェイクと一緒にしてほしくはないです。大きく違うのは発信者の意図です。フェイクニュースは、政治的に都合のいい話を捏造して、特定の考えを広めたいという思惑があると思います。けれど虚構新聞は、笑ってもらえる作品をつくるという意識があります。読めばウソだと分かるよう工夫していますし、フェイクのように、読者の考え方をコントロールしようという意図は全くありません」

 その上でサイト運営者はこのように語られていました。

「この数年で『現実が虚構新聞を追い抜いている』と言われるようになりました。トランプ大統領の当選に、イギリスのEU離脱も、今までなら『それは無いだろう』ということが現実になるようになりました。大量の情報を受け取れる時代で、みんなが情報をそのまま受け取るんじゃなくて、一歩立ち止まって『これ虚構新聞じゃないか』と思ってもらえるという気づきがあるだけでも」

「“ニューノーマル”の時代と言ってますけど、“ニュー”とか無くていいんです。普通に“ノーマル”に戻ってほしいです。ネットで“バズる”とかも、もう、その言葉自体も古くさい気がしています。これからの時代には、『常識』という柱をもう一回しっかり取り戻してほしいですね。コロナが収まることも含めて、4、5年前のように世の中が淡々と続いている、普通の時代に戻ってもらうのがいちばんありがたいです。事実というのは基本的にすごく当たり前のことなので、魅力的ではないかもしれません。しかし、事実がしっかりと土台にあるから、虚構新聞のようなふざけた情報とかがあるのだと思います」

 

 サイト運営者も語るように、風刺やパロディーが成立しないような世にしてはいけないと思います。この虚構新聞が次のような”誤報”の謝罪をしなくて済むような時代が再び来るといいものです。そして、こんな時だからこそ「クスっと笑える」そんな話題で人の心を和ませたらと私は思います。2 m 離 れ て マ ス ク 着 け て (笑)

 

「2mのロングバトンも コロナ禍で「新しい運動会」マキャベリ小」についてお詫び

2020年9月12日配信の「2mのロングバトンも コロナ禍で「新しい運動会」 マキャベリ小」記事につきまして、同月27日、神奈川県相模原市の小学校にて長さ2メートルのバトンを使った運動会が実際に開かれたことが分かりました。虚構世界の現実を伝えることを目的とする本紙におきまして、記事が一部現実化してしまったことを、関係者と読者のみなさまに深くおわびいたします。

 27日配信の毎日新聞(ウェブ版)の記事「長さ2mのバトン、掛け声は紙で、競技はテレビ中継…コロナ下の運動会」によると、相模原市の市立田名北小学校で27日に行われた運動会で「ウレタン製の棒にビニールを巻いた長さ2メートルの「ロングバトン」でソーシャルディスタンスを保って行うリレーや、かけ声を発さずに紙に書いて掲げながら踊るソーラン節など、工夫を凝らした12のプログラムが催された」ということです。

▲「長さ2mのバトン、掛け声は紙で、競技はテレビ中継…コロナ下の運動会」(毎日新聞より)

 

▲「「新しい運動会」用に制作した2mのロングバトン」(本紙記事写真より)

 

 上記記事の配信後、本紙編集部には「現実に起きたことを伝えている。誤報ではないか」とのメールやSNS経由での問い合わせが計20件以上寄せられました。これを受けて編集部で両記事を比較検討した結果、ご指摘いただいた本紙記事は「誤報である」との結論に達しました。

 誤報と判断した主な理由は以下の2点です。

 (1)「コロナ禍で行われる新しい形の運動会」という記事全体の趣旨か酷似していること
 (2)本紙記事「長さ2メートルのロングバトン」の記述が現実の運動会で使用されたバトンと長さ・名称ともに全く同じであったこと

◇  ◇  ◇


 昨年の「ジョン・ケージ「4分33秒」トリビュート盤発売が決定」の誤報以後、編集部では記事の虚構性を保つため、記事のチェック体制強化や、配信ペースの見直しなどを行ってきました。

 しかし、記事公開後わずか2週間余りで現実を先取りしてしまう勇み足の報道となってしまったことは、言論機関として痛恨の極みです。コロナ禍という非現実的な状況下でスクープを得ようと急ぐあまり、現実で起こる可能性を甘く見積もった結果であると自ら断罪せざるを得ません。

 当該記事を執筆した社主UKは、編集部の聞き取りに対し「『コロナ禍でもなお運動会を強行するなら、こんなことになるからあきらめなさい』ということを逆説的に報じたつもりだったが、こんな悪ふざけみたいな競技を実際にやる学校が出るとは予想できなかった。全部コロナが悪い」と説明し、反省の態度を示しませんでした。

 このことから編集部では執筆を担当した社主UKに対し、10月1日から本社ビル地下3階地下牢拘留2日間(おやつ抜き)の処分を言い渡しました。なお十分なバックアップ態勢が整っているため、処分中も記事執筆及びサイト運営に影響はありません。

 日ごろ本紙を信頼してくださっている読者のみなさまにおかれましては、この度の誤報でご迷惑おかけしたことを改めておわびします。これまでの常識が通用しないコロナ禍においてはスクープを狙うより、まず読者のみなさまの安心と信頼を取り戻したいと考える所存です。(編集部)

【虚構新聞】 https://kyoko-np.net/

サッカー部 MUSANISTA #125 『 40分 』

 本日から、新型コロナウイルス感染対策として、始業時間の1時間繰り下げ40分授業が始まりました。皆さんは40分と聞くと、何を思い出すでしょうか。ラグビーの試合は前後半各40分で行われています。また、バスケットボールの試合は10分×4クオーター=40分。サッカーに関して言えば、高校サッカーの前後半は各40分で行われています。
 'FC MUSASHINO'の試合では、「いかに前後半の各40分を集中して、高いパフォーマンスで戦いきるか」というのを大切に戦っています。立ち上がり、ハーフタイム後、終了間際。集中力が低下しがちな時間帯に、声を掛け合って集中する雰囲気を作っていく。そんなことを試合前は声掛けしていました。
 話をはじめに戻します。普段の50分授業から、40分授業になって勉強はどのように変わるでしょうか。先生側から見ると、普段50分でやっている内容を40分でやらなければいけないので、「授業のスピードを速くせざるを得ない」ということや「授業で伝えたい内容が入りきらず削らざるを得ない」ということが起きてきます。今日一日授業を受けてみて、生徒側は、どう感じたでしょうか。「スピードが速くてついていけない!」と感じたでしょうか、「内容がスリムで理解しやすい!」「集中力が持続してなんだか理解しやすかった」と感じたでしょうか。いずれにせよ、この40分授業は少なくともあと3週間程度は続きます。早く40分授業に慣れ、リズムをしっかりとつかみましょう。
 ある実験では、『15分の短い学習を積み上げた方が、詰め込んで一気に勉強するよりも効果的だという結果』が出ています。この実験では中学1年生を「連続60分」「連続45分」「15分×3回=45分」の3つのグループに分け、英単語を覚えさせました。結果的に、「15分×3回=45分」で学習させたグループの子が最も学習効果を得られただけでなく、「連続45分」で学習したグループの方が「連続60分」で学習したグループよりも効果が出ていたことが興味深いと紹介されています。続いて、『学習の成果は、「学習の量」×「学習の質」』ということに言及し、『時間は限られている中で、より効果が高い学習方法を見出していく必要があ』ると述べています。
 出典;http://www.asahi.com/ad/15minutes/
    朝日新聞デジタル『勉強時間は短い方が好成績?』より

 まさに今、学校の授業は40分授業になってしまい、1日あたり60分の授業時間が削られてしまっています。そんな今だからこそ、試合に集中するのと同じように1分1秒無駄にせず授業に集中し、学習効果を高めましょう。学校にいる時間が短い分、家に帰ってからも復習をすると、学習効果が高まります。40分授業のデメリットばかりに目を向けるのではなく、臨機応変に対応し、メリットを最大限に生かすようにしていきたいですね。

サッカー部 MUSANISTA #124 『 1.17 』

 

 既にお気づきの方もいるかもしれませんが、部活が中止になってから毎日ブログを更新しはじめました。以前、緊急事態宣言が発令されて臨時休業になった時もさせてもらいましたが、今回も”部活”の代わりにブログ更新を続けていきたいと思います。

 本日は、1月17日。もしかしたら、若い世代の中には「えっ、何それ??知らない」と平気で言う人もいるのでしょうか。今日から26年前、この国では大変なことが起きていました。

【観測史上初の震度7 死者の6割が60歳以上】

 1995年(平成7年)1月17日火曜日、午前5時46分。兵庫県南部地震が発生。国内史上初の震度7が観測。関連死を含めた死者が6434人、住宅被害が約64万棟の大震災。家屋の倒壊などで大勢の方が亡くなり、厚生労働省の調査では1995年1月~6月の死者のうち窒息・圧死が77%に達する。また、被害は高齢者に集中し、神戸市では死者のうち60歳以上が59%だった。

【被害総額9兆9268億円 国予算のほぼ1割の規模】

 大都市直下型の地震による経済被害は甚大で、被害総額9兆9268億円は国の予算規模のほぼ1割相当。2011年3月11日に発生した東日本大震災の被害総額は約16兆9000億円と推測されている。

【神戸市では7人に1人が避難】

 震災から6日目の1月23日、1153の施設に31万6678人が避難。自治体は、学校などの公共施設を避難所に指定していたが想定を超える避難者が出たことで、多くの人が指定外の公園や民間の建物に身を寄せた。多くは避難所に追加指定されたが、当初は救援物資や食事が配給されなかったケースもあった。

【供給網はずたずたに】

 寸断されたライフライン。神戸市全域で水道が復旧したのは発生から3カ月後だった。蛇口をひねっても出ない水。消えたままの街の灯り。繋がらない電話。ライフラインは、一瞬にして途絶えた。配水管を中心に被害を受けた水道は、兵庫県内の10市7町(当時)で全給水戸数の90%にあたる126万6000戸が断水。電気は約4000本の電柱が倒れたが、震災7日目の23日には倒壊家屋を除いて復旧。ガスは全国155事業者が応援、延べ72万人が復旧にあたり、震災3カ月を待たずに完了。

 神戸市内の水道は震災直後、ほぼ全域で断水。東京、大阪など全国各地の水道局の応援を受けながら復旧作業を進めたが配水池から各地域に水を流す配水管は約4000kmもある上、水が漏れている場所の特定から始まり、作業は難航。配水車による水の配給もあったが飲料など最低限に限られた。川の水で洗濯する人もおり、トイレやお風呂など生活用水の確保という課題を突き付けられる。

【東西の高速移動網が回復するのに622日かかる】

 阪神高速神戸線では走行中の運転手らが犠牲に。神戸市東灘区では橋脚が折れ、635mにわたって横倒しになる。衝撃の映像が被害の象徴として世界に発信され、今日でも繰り返し映し出される。

 JR六甲道駅はホームと上屋が倒壊し、阪神電鉄は8か所で高架が落下。神戸と大阪を結ぶ鉄道3線の上通で1日45万人の足が奪われる。復旧は急ピッチで進み、山陽新幹線は4月に運転再開。8月23日の六甲ライナーをもって、被災地の鉄道はすべて復旧。

【1793億円を超える善意】

 全国から集まった義援金は総額で約1793億円。当時としては戦後最多。義援金は「被災者の当面の生活を支えるもの」として位置づけられ、被災状況を確認した自治体では2月1日(震災から15日後)から支給が始まった。しかし、当時戦後最大規模で集まった義援金も、1世帯当たりに均等配分したとすると約40万円。雲仙普賢岳噴火災害(1990年)の約3219万円や新潟県中越地震(2004年)の216万円に比べると大きく下回る。そのため、被災者の多くは災害援護資金などの貸付制度に頼らざるを得なかった。

【167万人が被災地へ】

 被災地では震災直後の1年間で138万人、多い時で1日2万人が活動し、被災者を支援するボランティア団体やNPOが数多く生まれた。1995年は後に「ボランティア元年」と呼ばれるようになった。

 阪神・淡路大震災がきっかけに定着したボランティア。地震だけでなく、豪雨災害の被災地など、活動の場は広がり、復旧・復興に欠かせない存在になってきている。こうした市民活動を支援する機運が高まり、自治体がさまざまなボランティア助成金制度を設ける。災害時の緊急支援、そして息の長い活動に向けてノウハウの確立や人材の配置と育成、資金・資機材の調達などさまざまな課題もある。

【4万8300戸 前例のない仮設住宅の大量供給】

 地震発生の3日後、神戸市では仮設住宅の建設が始まる。問題になったのは、建設用地。被災地内だけでは土地が足りず、大阪府内や姫路、加古川市など18市11町に広がる。仮設住宅の発注は震災の日から始まり、兵庫県民向けに4万8300戸が発注された。神戸市では最初の入居が震災から16日後の2月2日だった。仮設住宅が入居ゼロになったのは、2000年1月14日。震災から1823日後だった。当初仮設住宅を設ける期間は原則2年とされており、設定期限は3回も延長された。仮設住宅を経て自力で住宅を確保できなかった人たちには、災害復興用の公営住宅が用意された。災害復興公営住宅などの供給戸数は4万2137戸。うち2万5421戸が新規に建設された。

【多くの人が住み慣れた街を離れた】

 仮設住宅や新規に建設された災害復興公営住宅は、建設用地の確保が難しく、湾岸の埋立地や人工島、郊外のニュータウンや工業団地の空き地などを利用するしかなく、住み慣れた地域を離れたくない被災者とのミスマッチから、優先度が高い高齢者世帯も抽選から漏れることが珍しくなかった。

【2人に1人が高齢者】

 2013年11月時点で、災害復興住宅の高齢化率は49.2%、単身高齢世帯率は45.4%。一般県営住宅は28.6%、23.8%に比べ極端に高くなっている。高齢化率70%の復興住宅もあり、そうした住宅では自治会の担い手不足からコミュニティーの活力低下が深刻化。住民の交流行事だけでなくゴミ出しや清掃と言った活動も難しくなっている。

【『震災を経験していない』2021年には5割に】

 神戸市では震災を経験していない市民の割合を算出している。震災を経験していない市民の割合は増加しており、震災から26年の2021年には市民の半数が震災を経験していないことが考えられる。阪神・淡路大震災後の採用が職員の約半数を占める神戸市では、「20年以後」を見据えている。小中学生向けの教材として、震災当時の体験を家族から聞き取れるワークブック形式の教材を作成するなど、若い世代へ記憶を伝える試みをしている。

1月17日 神戸新聞より

 

 神戸の人たちは、こんな苦難を乗り越えて今日までやってこられました。今、この国は再び危機的状況です。医療・経済・教育・スポーツ・生活・・・すべてが共に同じ方向を見るのは、恐らく難しいのでしょう。それでも数年後には、神戸市と同じように新型コロナウイルスの世界的感染拡大に対して取った国民の行動や日本はどうやって長期に渡る感染拡大を終息させたのか、世界と日本との違いは何だったのか、そして今回のことで得た教訓を私たちは堂々と後世に伝えていけるのでしょうか。