MUSANISTA -活動日誌-

サッカー部 MUSANISTA #138 『 再度延長 』

 緊急事態宣言の延長により、新人戦の日程が再度延長になりました。それに伴い、先週金、今週月、火、水とやってきた部活も、また停止期間に入ってしまいました。新人戦の新たな日程は、初戦が3月14日(日)の予定です。
 さて、今回の部活動停止期間は、学年末考査や入試の関係で、約1ヶ月になる予定です。再開は、学年末考査最終日の3月4日(木)になる予定で、今回は大会前であるからといって2週間前から練習を再開することが難しい状況です。したがって、今回は練習再開の4日から数えると、新人戦に向けたチーム全体の練習としては

 4日(木)、5日(金)、6日(土)、7日(日)、8日(月)、9日(火)、10日(水)、11日(木)、12日(金)、13日(土)

のちょうど10日間しか行えません。もし、この一か月間部員が何の「自主練習」もせず3月4日を迎えたとすると、確実に新人戦で全力で戦いきることはできません。今回こそ、前回以上に『新人戦は準備をしっかりとできたチームが勝つ』ということを再確認し、「自主練習」に取り組んでほしいと思っています。特に、テクニックでは勝っているのに、体力切れで戦いきれないということが絶対にないように準備していくつもりです。今回も、「Self Training Note」を課し、部員の取り組みを見守ります。
 また、我々スタッフ以外にも学校の中で応援してくれる生徒もいます。先日、新人戦に向けてということで、差し入れをいただきました。ありがたく頂戴し、新人戦の試合当日に使わせてもらおうと思います。'FC MUSASHINO'を応援してくださっている皆様も、緊急事態宣言明けの新人戦での活躍を信じて、引き続き見守っていただければと思います。よろしくお願いします。

 今できることは、『再開できるその日を信じて、その日を見据えて、準備していくこと』。それしかないと思います。ブカツができなくとも、やるべきことをやり、試合に備える。そんな『自律力』が試される期間だと思います。

 Do what you should do now !

(今 やるべきことをやれ!)

サッカー部 MUSANISTA #137 『 立春 』

 今年も早いもので2月になりました。明日は、1897年(明治30年)以来124年ぶりに2月2日が節分となる日です。つまり、暦の上では明後日からもう春です。この一年、ほんとうにあっという間だったような気がします。それでも政府は、緊急事態宣言を延長する方針で固めたそうです。明日の諮問委員会で正式決定になるようです。予期していた「新人大会」の”再延期”も現実味を帯びてきました。

 さて、話は少し変わりますがみなさんはどうしてサッカーをしていますか。言い換えれば、「サッカーが出来なければほかに何をしますか」。高校生当時の私の答えは簡単です。「自分の夢を叶えるため」「プロになって日の丸をつけてプレーをするため」「サッカーが出来ない事は考えられない」そんなところだったと思います。私に限らずチームメイトも私と似たようなものだったと思います。なので、ある面では試合よりも練習の方が厳しかったですし、仲間が練習を休んでるときはチャンスだと思っていましたし、そんなやつらばかりでしたから多少身体が痛くても安易に練習を休んではいられないような雰囲気でした。捻挫、モモカン、肉離れ、時には疲労骨折でも練習中は痛みを忘れるくらいにやっていたと思います。中には、試験前でも練習に来るのもいましたし、学校行事を休んで試合や練習に来るのもいました(笑)今ほどクラブチームという概念が定着していなかったので当時学校側もチームの活動を理解するのは大変だったかもしれません。皆、サッカーが好きな連中ばかりでした。

 何が言いたいかというと、私たちはそれだけ「打ち込んでいた」ということです。自分が好きなものや大事にしていることに高校3年間のすべてを費やしていたということです。そして、そのために「本分」を疎かにはしなかったということです。「サッカーを頑張ってるから勉強できなくてもいいだろう」「練習で疲れてるから勉強できなくても仕方ないだろう」「監督にバレなければ大丈夫」「オレは上手いんだから特別だ」「たまには練習サボって遊ぼうぜ」・・・。私がサッカーを始めて、最初に学んだことは「サッカーは、子どもを大人にし、大人を紳士にするスポーツである」という言葉でした。当時は、あまりピンと来ませんでしたが歳を重ね、振り返ってみると挨拶や礼儀、マナー、身の回りの整理整頓、時間を守ること、物を大切に扱うこと、協力すること、努力すること、諦めないこと、年下には優しくすること、年上には敬いを忘れないこと、親孝行すること、約束は守ること、自分に嘘はつかないこと、誤魔化さないこと、人を馬鹿にしないこと、ずっとサッカーに携わっていけるような人になることなど、本当にたくさんの大切なことを「サッカー」を通じて教わってきたことに気が付きました。あまり知られていないかもしれませんが長谷部誠選手も、長友佑都選手も、香川真司選手も、クリスティアーノ・ロナウド選手だって、皆サッカーをすることで成長して世界でも有数のサッカー選手になられています。

 私たちの春はまだまだ先ですが、自分を見失うことなく、今を大事にして、明日からも練習に打ち込んでいきたいと思います(まだブカツができることに感謝です)。

サッカー部 MUSANISTA #136 『 Re:start 』

 延期となっていた埼玉県高校サッカー新人大会南部支部予選の改日程が決まりました!規定により、「感染予防対策として2月7日までの間は部活動は原則中止とするが、大会当日から起算して2週間以内は活動をしてもよい」となっているため、本日より「ブカツ」を再開しました。部員も約3週間振りの部活とあって、イイ顔をして練習していました。ここまで自主練習に取り組ませていたのがよかったのか、私達が思っていた以上に身体がまだ動かせていたように感じました。さすがに最後の方は疲れも見えていましたし、何より「試合」となったら今日の状態は、まったく論外でしょう。ここからどこまでコンディションを上げていけるのか、私にも分かりませんが…それはどの学校も同じこと。初戦までの短期決戦を精一杯に準備していきたいと思います。

 ですが・・・

練習後に部員には、こうも話をしました。

「今の状況下で部活動を行うことが周囲にどんな風に思われるか」

「だからこそ、感染予防には細心の注意を払って、これまで以上にまわりに気を配って活動しなければならない」

「万が一、大会が再延期になって、数日も経たない内に再び活動中止になったとしても、決してこの数日間は無駄にはならないし、少しの間だけでもブカツが出来たことに感謝する」

「置かれた環境の中でそれぞれの考えがある。この状況での部活への不参加は誰からも非難されることではない。皆で理解しよう」

 この先、予定通りに大会が開催できるのか、本当に分かりません。報道では来週5日頃には緊急事態宣言の延長可否が決まるとの事です。先にも述べましたが、今の私達は大会参加の機会が設けられたお陰でブカツが行えるようになった。ただ、それだけです。今日までなくなっていたピッチが眼前に広がり、ボールとゴールがあって、仲間と集まり、共にサッカーを思いっきりすることが出来る。それだけです。

 

【埼玉県新人大会南部支部予選兼関東大会予選】

     日 程:2月11日、14日、20日、3月14日、20日、21日 (6日間)

     初 戦:2月11日(木)

     相 手:県立与野高校

※コロナウイルス感染拡大予防のため、本大会は大会関係者のみでの試合となり、保護者をはじめ家族や友人、その他一般の方の来場を禁止しています。試合会場及び試合時間は、掲載できませんがどうぞご理解とご協力をお願い致します。

サッカー部 MUSANISTA #135 『 内に目を向けてみれば 』

 コロナ禍で部活動ができなかった期間にも、顧問の阿部、鈴木は様々なことを相談し、決定してきました。緊急事態宣言解除後の練習について、来シーズンについて、HP更新についてなど...。そんな話の中で、ふと今の2年生の話になりました。
 阿部が本校に着任してから2年が経過しようとする今、顧問が阿部、鈴木での体制での'FC MUSASHINO'は3年目を迎えようとしています。今の2年生が2年前入学してきたころを思い返してみると、今よりも技術力も戦術力も物足りなかったことを思い出します。今では、それぞれが技術面、戦術面、精神面、様々な面で成長し、一回り大きくたくましくなったことをしみじみと感じます。

 一昨年の夏合宿では、「骨折した!」と騒いで病院で診てもらったら「ただの捻挫ですよ」と言われたり、選手権予選vs山村国際で大事な試合であるにもかかわらず、人生初めてのカードがレッドカードで退場したGK。試合後はいじけて端っこで泣いていました。今では、キックの精度、飛距離も上がってきたり、コーチング、声出し、シュートストップなど見違えるようになりました。

 クマガヤSCで培った力で先輩の試合にも早い時期から出場していたCB。部長になってからは、試合を分析してミーティングで時間を取って話してもらったり、選手への連絡をしてもらったりしています。試合の中でも、誰よりも声を出してチームを盛り上げたり、練習中からチームをまとめたりしてくれています。ヘディングやスライディングなどのプレーにも自信をもって戦えるようになってきました。

 一昨年の12月に入部したCB。最初はなかなかステップが踏めず、守備の対応に四苦八苦していました。しかし今では、自分からインターセプトを常に狙っていたり、相手に前を向かせないように早くプレスをかけたりと、チームのためにサボらず貢献してくれている姿をよく見ます。身体の方も継続的に鍛えていて、部活再開後が楽しみです。

 先輩がいた間はなかなか出場機会がなかったSB。昨年の夏には、試合でなかなかうまくいかないスランプの時期があり、そこから「練習前のステップ、ラダートレーニングなど」を始めました。最近では、その成果もあってか、ステップをしっかり踏めるようになったり、ボールの落下点を読んでヘディングでクリアしたり、自信も出てきてオーバーラップなど攻撃面でも積極的なプレーが増えてきました。

 球際やヘディングを嫌がってほとんど競り合いに行かなかったボランチ。今では、セットプレーになると上がって点を取りに行ったり、守備の面でも相手を圧倒するヘディングの強さを見せています。また、練習中でのゴール率の高さも目を見張るものがあり、最近は意識してロングシュートをさせていることから、試合中のロングシュートでの得点も期待できる選手になりました。

 先輩と折が合わない時期があったり、ポジションがかぶって出場機会に恵まれなかったボランチ。最近では不動のボランチを任され、献身的で粘り強い守備、着実で正確性の高いパスで攻撃のリズムを作るなど、今では'FC MUSASHINO'のゲームには欠かせない存在になりました。怪我に悩まされる時期もありましたが、部活動再開後は万全の状態で活躍してくれると信じています。

 高校に入ってからサッカーを始めたFW。初めの頃はボールを止めることも、蹴ることもままならず、ドリブルで突っ走るだけのSHでした。なかなか顔が上がらないドリブルは、そのまま止まれずゴールラインを割ってしまうこともしばしばありました。今では、立派にFWを任されるほど迫力満点に。顔も上がるようになり、相手の守備をしっかり見て次のプレーを考えられるようになりました。実は一番成長しているその選手、持ち前の速さを武器に相手ゴールに迫る姿をまた見せてくれるはずです。

 持ち前のボディーバランスと他を圧倒する馬力の強さ、誰よりも豊富な運動量に味方の良い所を引き出す判断力で活躍するトップ下。先輩の試合にもよく出場していたこの選手は、今ではチームのバランス的にトップ下を任される。後輩とトラブルになっても、後輩の話に耳を傾け、改善に向けて努力する大人な面も培ってきた。部活動再開後、彼がゴールネットを揺らしチームを勝利へ導く日が来るのだろうか。今後の彼に期待を寄せる。

 今の2年生とともに入ってきて、ここまで支えてくれているマネージャー。部活動再開に向け、ずっと伸ばしてきた髪の毛をバッサリ切って気合十分。また新人戦に向け、チームを盛り上げ支えてくれること間違いなしです。

 こう見てみると、やはり2年生は成長したなあと感じます。1年生は入部してからあまり試合経験も積めず、出場も少ない選手もいますが、1年後はここで先輩たちと同じように報告できるかと思うと、楽しみです。今後、彼ら全員がどのような成長を見せてくれるのか期待してまた指導していこうと思います。

サッカー部 MUSANISTA #134 『 未完の大器 』

 「Jリーグ史上初2年連続得点王」「記者泣かせの寡黙な選手」「大食漢」「世界大会とは無縁の日本代表」「リーグ戦でシーズン最初のゴールを決めた相手はJ2に降格する(2007年から6シーズン連続)」「デスゴール」など、彼のことを表す言葉には絶えない。日本屈指のストライカー前田遼一選手です。高さ・技術・豊富な運動量に合わせ守高い守備意識も兼ね備えた万能型FW。彼もまた昨シーズンいっぱいでプロサッカー選手を引退されました。

 

”谷間の世代”と呼ばれて…あえて「暁星→ジュビロ」を選んだ”不器用な男”の21年間

 

 「谷間の世代は粘っこい」

 かつて阿部勇樹がこう語っていたことがあったが、そんな“谷間の世代”でまたひとり、現役引退が発表された。昨年末でFC岐阜との契約が満了していた前田遼一だ。世界大会はワールドユース出場のみ。2004年のアテネオリンピックも、2010年の南アフリカ大会も2014年のブラジル大会もワールドカップには出場していない。日本代表では33試合出場し10得点とあまり縁がなかったとも言える。高い技術力と戦術眼、サッカーセンスが前田遼一の持ち味だ。そして、黒子になることもいとわない献身性が彼の美徳だった。だからストライカーとしては地味な存在かもしれない。それでも、J1通算154得点は歴代5位(現在3位タイの中山雅史・興梠慎三には3点足りなかった)。ちなみに1位の大久保嘉人、2位の佐藤寿人と前田を含め、トップ5には3人の谷間の世代が君臨している。

【名門暁星→慶應ではなく、名門「ジュビロ磐田」へ】

 そうか、もう21年も前のことだったのか。前田を初めて取材したのは、ジュビロ磐田加入が決まっていた2000年1月、U-19日本代表合宿だった。東京の名門私立校暁星学園で育った彼は、少しおっとりとしていて落ち着いた少年だった。その年の高卒選手のなかで、もっとも多くのオファーが届いたという前田が、なぜ磐田を選んだのか? 慶應義塾大学への推薦入学が決まっていたとも聞いた。「ほんと変わっているよね。俺だったら、慶應を選んだよ」と磐田の先輩がさっそく前田をネタに軽口を叩いた(その先輩は名門大学を卒業後、磐田へ入っていた)。世間一般で言われるエリート街道ではなく、成功できるか分からないプロの世界へ身を投じたのは、さぞ、サッカー選手として大きな夢を抱いているからかと思えば、そういう話でもなかった。

 「磐田の練習に参加したら、うまい選手ばっかりで、すっごく楽しかったんですよ。サッカーをやるならここだと思って」当時はまだ強豪校とは言えなかった桐光学園を率いて、高校選手権準優勝に輝いた中村俊輔に前田は憧れていた。中村の高い技術力、ドリブルに魅かれただけでなく、自身もまた中村のように暁星学園高校をけん引し、選手権を勝ち進みたいと考えていた。だからときにはチームメイトに厳しく当たることもあったと、のちに振り返っている。前田自身はすでにU-18日本代表にも選ばれ、有名な存在だったが、結局一度も高校選手権には出場できなかった。彼が抱いていた渇きを埋めたのが、磐田での練習だったに違いない。けれど、プロの世界は甘くない。目を輝かせながら笑う18歳の前田に、あるJリーガーの話を告げた。

 「磐田の練習に参加した帰りの新幹線のなか、選手名鑑を見ながら自分と年齢の近いMFの顔ぶれを見て、磐田へ行っても試合に出るのは難しいと入団を断念したのが、中村俊輔なんですよ」すると前田は「だから楽しかったんですね」と答え、自分と同じポジションの先輩の名前を挙げながら、「なるほど」と納得顔を浮かべ、笑った。やはり楽しさが一番なのだろうとほほえましい気持ちになった。


【名門の厳しい言葉にも「こんなもんです」】

 当時の磐田は個性豊かな日本代表クラスの選手が揃い、強豪として君臨していた。試合になれば、ときに罵声も飛び交うチームの一員として、果たしてこの少年はやっていけるのか? 強い興味を抱いたことを覚えている。

「僕がシュートを外すと、周りの選手がみんな『アチャー』って感じでコケているんですよ。お笑い番組でコケているみたいな感じで」自分の失敗を、少し楽しそうに前田は話してくれたのは、磐田に加入して数カ月経ったときのことだ。

「遼一、俺のコース消すな!!」

「途中から出て来たのにすべてが中途半端で何がやりたいのかわからない」

「お前の視野はどれだけ小さいんだ」

 実際、前田には笑えないくらい厳しい言葉がチームメイトから発せられていた。それを彼はどう受け止めているのだろう。「ごめんなさいという感じですか?」と訊いてみたことがある。「ジュビロの先輩は試合になると鬼になる。怒鳴られても、ごめんなさいとは思わない。本当のことだから。へこんだりはしない。陰で言われるよりもずっといい。今はこんなもんですという感じ」さらりとそう言った前田は、他の若手とは違った。「自分はやれる」というような自信はまだなかったが、自分を信じる強い気持ちは厳しい現実のなかでも変わらなかったのだろう。前田が持つ図太い芯みたいなものは、百戦錬磨の先輩たちも見抜いていた。「あいつは俺たちにキツイことを言われてもへこたれたりしない。だから、俺らも厳しいことを言えるんだよ」と福西崇史が当時語っている。あの頃の磐田は、ピッチ上では強烈な厳しさが行き渡っていたけれど、チームの雰囲気は部活に近いものがあった。そんななかで、前田は「弟キャラ」としての存在を確立していく。しかし、MFとしての出番はほとんどなく、前田が定着したのは、中山雅史、高原直泰に続く、FWとしてのポジションだった。

 

【名ストライカーへ 進化の原点は“挫折”】
 「試合にもっと出場できるようにレンタル移籍を考えたこともあるけど、ジュビロで試合に出ることを目標にしたい。そこからは逃げたくない。今までも僕なりにがんばってきたけど、まだ足りないということを痛感している。先輩はみんなもっとがんばっているから」

 新人の前田が口にした「逃げない」という姿勢は、彼がプロとして生きるうえでの基盤となったように感じる。どんなに苦しい現実でも、それを解決できるのは、自分しかない。そのための悪戦苦闘が、成長を後押ししてくれるのだ。「FWだったのに、1点も取れなくて申し訳ない」

 2001年アルゼンチンで行われたFIFAワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)に出場したU-20日本代表で、前田は1トップでプレーしている。高い技術を持つ前田に、前線でボールを収め、攻撃の起点を作り出すゲームメイカーのような働きを期待したのだろう。しかし、阿部勇樹など主力と思われた選手が欠場したこともあり、最下位でのグループリーグ敗退を喫した。これが「谷間の世代」と呼ばれる彼らの原点となった。本来のMFではなく、FWで起用されたものの無得点だった自身を前田は責めた。しかし、思い返すと、このときに彼のストライカーとしてのキャリアがスタートしたのかもしれない。現に十数年後には、磐田だけでなく、日本代表としても活躍するFWに進化を果たす。

 

【「取材しづらい選手」と言われて】
 「今日、俺、そんなに良かったですかね?」得点を決めた試合後、多くの報道陣に囲まれた前田は、取材に応じながら、少し不満気だった。そして、最後にそっとそう告げた。確かにその試合の前田は運動量が乏しく、らしくはなかった。けれど、ゴールを決めて、チームに勝利をもたらしたのは事実だ。若いFWの活躍にメディアが騒ぐのも当然だった。けれど、前田はそれで良しとはできなかったのだ。自分に対してはいつも厳しい。そんな前田らしさは、20歳の頃からずっと変わらなかった。ゴールというわかりやすい結果で一喜一憂することはない。90分間何ができたのかが大事だった。チームに勝利をもたらす仕事をすることだけを考えていたように思う。その頑なさが、「取材しづらい選手」という印象を作っていったのかもしれない。

 2002年に右ひざを負傷し、長期離脱をして以降、身体のケアに余念がなかった。練習後には乳酸が溜まらないように黙々とジョギングを行い、クラブハウスで長い時間を過ごすようになる。まだ20代前半ながら、その気遣いはベテラン選手のようだった。中山をはじめ、ベテラン選手の多い磐田では手本となる選手は数多くいた。そして前田からは少年ぽさが消え、精悍さが強く漂うようになる。

 

【「強引さが足りないと言われることは多いけれど」】

 こうして、FWとして頭角を現し始めていた前田が否定されたのが、アテネオリンピック代表でのことだった。「前田はFWじゃない」と山本昌邦監督は語り、メンバー選考の最後の試合ではボランチで起用、結果、アテネ五輪代表に選出しなかった。ストライカーには「俺が」というエゴや強引さも必要だと言われるが、常にそれを否定する前田は、指揮官が考えるFW像とは違っていた。

 「強引さが足りないと言われることは多いけれど、チームよりも先に『自分』が来て、『俺が中心だ』というふうになるとむしろダメになる。そんなことが出来るのは、本当のスーパースターだけ」と、のちに34歳になった前田は話していた。自分に厳しい前田だが、チームメイトには優しい。2009年、2010年の2シーズン連続で得点王に輝いた年で、すでに磐田のエースストライカーとして、日本代表の常連にもなっていた時のこと。

 世代交代を経た磐田はなかなか思うような結果を生み出せず、両シーズンともに11位と低迷。若い選手たちのなかで、コンビネーションが悪く、前田が活きない試合も少なくなかった(それでも得点を重ねたことは評価に値する)。しかし、そんな試合のあと前田はいつもこう言った。

「まあ、そこがサッカーの楽しいところだと思うから」前田はいつも考えていたのだ。「サッカーはひとりではできない。だから面白い」と。2010年のナビスコカップで優勝。胴上げされる前田遼一©Takuya Sugiyama
「FWは周りに使われて、初めてゴールができる。パスが来なければ、シュートも打てないから。得点王を獲ったときもチームのなかでいかに動けるかを一番意識していた。良いクロスを入れてくれる選手がいて、僕自身も上手く動けたから、シュートチャンスが生まれただけのことなんです」

 

【「サッカーはひとりじゃできない」】

 “選手はチームの歯車であれ

 これは黄金時代の、かつての磐田の選手なら誰もが口にした言葉だ。誰もがチームのために戦わなければならない。そして、チームを構成する選手全員が共通意識を持つからこそ、歯車は回る。それを構築するには時間もかかる。だから、前田はオファーが届いても環境が変わることを懸念して、磐田に残留したのだろう。それでも「J1へ移籍できる最後のチャンス」と腹をくくり、2015年FC東京へ移籍を果たす。

 「移籍をして、サッカーはひとりじゃできないんだなと強く感じた。そして、ここでもまずはチームプレーを考える。組織の歯車になって、そのうえで、僕にしかできないことをやっていきたい」移籍加入時にこう語り、それが自身のプレーの幅が広がるきっかけになるだろうとも話した。

 

【ジュビロ磐田からFC東京へ】 
 そのFC東京からJ2のFC岐阜へ移籍し、J3でもプレーしたが、コンディション調整に苦慮し、怪我にも悩まされた。FC岐阜での1年目当初、シュート数とゴール数が同じという時期があった。精度100パーセントの理由は、試合を見れば一目瞭然だった。シュートチャンスがほとんどなかったのだ。

サッカーはひとりではできない前田の言葉が重く響いた。

 

【不器用で真っすぐなサッカー選手だった】
 引退の一報を受けて、真っ先に思い出したのは、若いころの彼の姿だった。

 それは21年もの時間が経過したにもかかわらず、前田の姿勢に大きな変化がないと確信したから。もちろん成長という変化はあったが、思い返せば返すほど、「やっぱり変わらないなぁ」と思わざるを得ない。そういう意味では不器用な人間だった。サッカーはあんなに巧いのに……。

 引退発表と合わせて、古巣磐田のU-18チームのコーチ就任もリリースされた。指導者としての第一歩を磐田で踏み出せるのは、前田にとっては幸運だろう。けれど、もう弟キャラではいられない。新しい覚悟が必要になる。

2021年 1月 NumberWeb(寺野典子氏)

 

「僕にプレーする機会を与えてくれたジュビロ磐田、FC東京、FC岐阜に関わる全ての皆さん、そして21年間僕を支え、応援してくれた全てのファン、サポーターの皆さん。皆さんのおかげで本当に幸せなサッカー人生でした!本当にどうもありがとうございました!
この度ジュビロ磐田で指導者としてのスタートをきるチャンスをいただくことができました!ゼロからのスタートになりますが、指導者としてこれから頑張っていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします!」

FC岐阜 HPより