MUSANISTA -活動日誌-

サッカー部 MUSANISTA #124 『 1.17 』

 

 既にお気づきの方もいるかもしれませんが、部活が中止になってから毎日更新しています。以前、緊急事態宣言が発令されて臨時休業になった時もさせてもらいましたが、今回も”部活”の代わりにブログ更新をしていきたいと思います。

 本日は、1月17日。もしかしたら、若い人達の中には「えっ、何それ??知らない」と平気でいう人もいるでしょうか。今日から26年前、この国では大変なことが起きていました。

【観測史上初の震度7 死者の6割が60歳以上】

 1995年(平成7年)1月17日火曜日、午前5時46分。兵庫県南部地震が発生。国内史上初の震度7が観測。関連死を含めた死者が6434人、住宅被害が約64万棟の大震災。家屋の倒壊などで大勢の方が亡くなり、構成労働省の調査では1995年1月~6月の死者のうち窒息・圧死が77%に達する。また、被害は高齢者に集中し、神戸市では死者のうち60歳以上が59%だった。

【被害総額9兆9268億円 国予算のほぼ1割の規模】

 大都市直下型の地震による経済被害は甚大で、被害総額9兆9268億円は国の予算規模のほぼ1割相当。2011年3月11日に発生した東日本大震災の被害総額は約16兆9000億円と推測されている。

【神戸市では7人に1人が避難】

 震災から6日目の1月23日、1153の施設に31万6678人が避難。自治体は、学校などの公共施設を避難所に指定していたが想定を超える避難者が出たことで、多くの人が指定外の公園や民間の建物に身を寄せた。多くは避難所に追加指定されたが、当初は救援物資や食事が配給されなかったケースもあった。

【供給網はずたずたに】

 寸断されたライフライン。神戸市全域で水道が復旧したのは発生から3カ月後だった。蛇口をひねっても出ない水。消えたままの街の灯り。繋がらない電話。ライフラインは、一瞬にして途絶えた。配水管を中心に被害を受けた水道は、兵庫県内の10市7町(当時)で全給水戸数の90。にあたる126万6000戸が断水。電気は約4000本の電柱が倒れたが、震災7日目の23日には倒壊家屋を除いて復旧。ガスは全国155事業者が応援、延べ72万人が復旧にあたり、震災3カ月を待たずに完了。

 神戸市内の水道は震災直後、ほぼ全域で断水。東京、大阪など全国各地の水道局の応援を受けながら復旧作業を進めたが配水池から各地域に水を流す排水管は約4000kmもある上、水が漏れている場所の特定から始まり、作業は難航。配水車による水の配給もあったが飲料など最低限に限られた。川の水で洗濯する人もおり、トイレやお風呂など生活用水の確保という課題を突き付けられる。

【東西の高速移動網が回復するのに622日かかる】

 阪神高速神戸線では走行中の運転手らが犠牲に。神戸市東灘区では橋脚が折れ、635mに渡って横倒しになる。衝撃の映像が被害の象徴として世界に発信され、今日でも繰り返し映し出される。

 JR六甲道駅はホームと上屋が倒壊し、阪神電鉄は8か所で高架が落下。神戸と大阪を結ぶ鉄道3線の上通で1日45万人の足が奪われる。復旧は急ピッチで進み、山陽新幹線は4月に運転再開。8月23日の六甲ライナーをもって、被災地の鉄道はすべて復旧。

【1793億円を超える善意】

 全国から集まった義援金は総額で約1793億円。当時としては戦後最多。義援金は「被災者の当面の生活を支えるもの」として位置づけられ、被災状況を確認した自治体では2月1日(震災から15日後)から支給が始まった。しかし、当時戦後最大規模で集まった義援金も、1世帯当たりに均等配分したとすると約40万円。雲仙普賢岳噴火災害(1990年)の約3219万円や新潟県中越地震(2004年)の216万円に比べると大きく下回る。そのため、被災者の多くは災害援護資金などの貸付制度に頼らざるを得なかった。

【167万人が被災地へ】

 被災地では震災直後の1年間で138万人、多い時で1日2万人が活動し、被災者を支援するボランティア団体やNPOが数多く生まれた。1995年は後に「ボランティア元年」と呼ばれるようになった。

 阪神・淡路大震災がきっかけに定着したボランティア。地震だけでなく、豪雨災害の被災地など、活動の場は広がり、復旧・復興に欠かせない存在になってきている。こうした市民活動を支援する機運が高まり、自治体がさまざまなボランティア助成金制度を設ける。災害時の緊急支援、そして息の長い活動に向けてノウハウの確立や人材の配置と育成、資金・資機材の調達などさまざまな課題もある。

【4万8300戸 前例のない仮設住宅の大量供給】

 地震発生の3日後、神戸市では仮設住宅の建設が始まる。問題になったのは、建設用地。被災地内だけでは土地が足りず、大阪府内や姫路、加古川市など18市11町に広がる。仮設住宅の発注は震災の日から始まり、兵庫県民向けに4万8300戸が発注された。神戸市では最初の入居が震災から16日後の2月2日だった。仮設住宅が入居ゼロになったのは、2000年1月14日。震災から1823日後だった。当初仮設住宅を設ける期間は原則2年とされており、設定期限は3回も延長された。仮設住宅を経て自力で住宅を確保できなかった人たちには、災害復興用の公営住宅が用意された。災害復興公営住宅などの供給戸数は4万2137戸。うち2万5421戸が新規に建設された。

【多くの人が住み慣れた街を離れた】

 仮設住宅や新規に建設された災害復興公営住宅は、建設用地の確保が難しく、湾岸の埋立地や人工島、郊外のニュータウンや工業団地の空き地などを利用するしかなく、住み慣れた地域を離れたくない被災者とのミスマッチから、優先度が高い高齢者世帯も抽選から漏れることが珍しくなかった。

【2人に1人が高齢者】

 2013年11月時点で、災害復興住宅の高齢化率は49.2%、単身高齢世帯率は45.4%。一般県営住宅は28.6%、23.8%に比べ極端に高くなっている。高齢化率70%の復興住宅もあり、そうした住宅では自治会の担い手不足からコミュニティーの活力低下が深刻化。住民の交流行事だけでなくゴミ出しや清掃と言った活動も難しくなっている。

【『震災を経験していない』2021年には5割に】

 神戸市では震災を経験していない市民の割合を算出している。震災を経験していない市民の割合は増加しており、震災から26年の2021年には市民の半数が震災を経験していないことが考えられる。阪神・淡路大震災後の採用が職員の約半数を占める神戸市では、「20年以後」を見据えている。小中学生向けの教材として、震災当時の体験を家族から聞き取れるワークブック形式の教材を作成するなど、若い世代へ記憶を伝える試みをしている。

1月17日 神戸新聞より

 

 神戸の人たちは、こんな困難も乗り越えて今日までやってこられました。今、この国は再び危機的状況です。医療・経済・教育・スポーツ・生活・・・すべてが一緒に同じ方向を見るのは、恐らく難しいのでしょう。それでも数年後には、神戸市と同じように新型コロナウイルスの世界的感染拡大に対して、国民の姿勢や日本はどうやって終息させたのか、世界と日本との違いは何だったのか、そして今回のことで得た教訓を私たちは堂々と後世に伝えていけるのでしょうか。

 

サッカー部 MUSANISTA #123 『 学ぶ姿勢 』

 新型コロナウイルスの蔓延に伴って、リモート授業やリモート会議、在宅ワークが増えてきている。去年卒業のサッカー部OBに話を聞くと、大学や専門学校で「多くの授業がいまだにリモートで行われている」という話を聞く。また、ある会社に勤める友人は、1度目の緊急事態宣言の際に在宅ワークに切り替えられたが、緊急事態宣言解除後にも「会社に出社しなくても仕事ができる」と認められ、むしろ「今後ずっと基本的には在宅ワークをしてくれ」と言い渡されたそうだ。

 そんな時代、環境において、大切な力の一つに「自律力」があると考える。リモート授業では、自分が好きな時間に授業の動画を見てレポートを書く授業がある。在宅ワークではだれも見ていないところで、誰の目もないところで仕事を進めなければならない。ここでは、「自分を律して」やるべきことをやらなければいけないということになる。のんびり過ごして動画を見ずレポートが出せない、ということがあれば当然単位は出してもらえないし、在宅ワークで仕事が期日に間に合わないようなことがあれば当然怒られ、最悪減給になることもあり得るだろう。結局、ツケを払わされるのは自分なのだ。

 そんなことにならないためにも、学校ではいろいろなことを教えている。「計画力」、「計画通りに実行する力」、「振り返る力」どれも大切な力であると思う。私は、これらの力を身につけるためには、言われたことをやっているだけでなく、「自分で考え、自分を律して行動する」ということが不可欠であると考える。今の部活がない状況は、まさにそんな力を伸ばすのに絶好なタイミングではないだろうか。
 部活では、まさに「計画を立て、実行に移し、振り返りをする」という「Self Training Note」を課している。また、部活がないことで家に帰ってから自学する時間が十分に取れることを考えると、まさに「自律力」を鍛えるのにピッタリの状況なのだ。家に帰ってからに時間を無為に過ごすのではなく、自分で計画を立て、自分で立てた計画を実行するという繰り返しが、こういった力を育む為にとても良い勉強になる。
 「学校で教えてもらえないから勉強ができない」と嘆くのではなく、こんな状況だからこそ伸ばせることを自ら伸ばすように努力してみてはどうだろうか。

サッカー部 MUSANISTA #122 『 魂のストライカー 』

 

 本日は、ひとりのプロサッカー選手をご紹介したいと思います。先日、現役選手を「ひとまずお休み」されることを再び決めた中山雅史選手です。サポーターからは「ゴン中山」「中山隊長」の愛称で親しまれています。最近では、スポーツ番組やニュース番組などにゲスト出演されていることでご存知の方も多いかもしれませんが、日本人ストライカーの中で、私はこの人を超える選手はまだいないと思っています。例えば、実績で言えば4試合連続ハットトリック(2016年まで世界記録)、国際試合における最短ハットトリックのギネス世界記録、2016年まで通算J1最多得点記録保持者(157得点)、Jリーグシーズン最多得点記録(36得点/27試合←昨年得点王だった柏レイソルのオルンガ選手は28得点/32試合)、W杯日本代表初ゴール、2002年日韓W杯日本代表10番など数々の偉業を成されています。プレースタイルは、泥臭く、鋭いゴール嗅覚、誰よりも執念深く、そこに血の滲むような努力とボールを持たない時の冷静な動き。人を驚かせるような華麗なプレーや特出した身体能力は見られないかも知れませんが、私はまさしく#9の選手だと思っています。スポーツライターの二宮清純さんは2013年に中山選手についてこのように書かれています。

 

“魂のストライカー”がプロ19年間の現役生活に幕を下ろした。昨年12月、コンサドーレ札幌のFW中山雅史が引退を発表した。中山はジュビロ磐田のエースとして、チームの黄金期を支え、Jリーグで3度の年間優勝に貢献。リーグのMVPを1度(98年)、得点王を2度(98、00年)獲得している。J1通算157得点は史上最多だ。日本代表でも中心選手として活躍し、W杯には2大会(98、02年)に出場を果たした。近年の日本サッカーの歴史は、中山の存在抜きには語れない。彼の代表での21ゴールの中から特に印象に残る2つのゴールを、11年前の原稿で振り返る。
<この原稿は2002年6月発行の『英雄神話』(徳間書店)に掲載されたものです>

 もし“日本代表魂”というものがあるとしたら、あの時に生まれたのではないか。
 私はそう確信している。

 1993年10月18日ドーハ・カリファスタジアム。
 アメリカワールドカップ、アジア地区最終予選。日本代表の“スーパーサブ”である中山雅史はイラン戦の後半28分に投入された。0対2と2点のビハインドで迎えた敗色濃厚の後半43分、中山は福田正博がタテに出したボールをラインを割る寸前にスライディングして止め、そのまま角度のないところからポストぎりぎりに振り向きざまのシュートを決めてみせた。それが最終予選における代表の初ゴールだった。「行ける! まだ行けるぞ!」ボールを小脇に抱えた中山は、チームメートを大声で叱咤しながら、センターサークルに走った。逆転こそならなかったものの、この中山の気迫が、意気消沈していたチームに喝を入れた。続く北朝鮮、韓国戦に連勝し、オフトジャパンは最後のイラク戦にアメリカ行きの望みをつないだ。中山の闘志が死に馬を走らせたのである。
 そして迎えたイラク戦、日本は中山の2点目のゴールで勝ち越すが、ロスタイムで追いつかれ、搭乗手続きまですませていたアメリカ行きのチケットを手から滑り落としてしまうのである。俗に言う“ドーハの悲劇”である。その瞬間、ベンチに下がっていた中山は天を仰ぎ、身も世もないとばかりに顔を覆った。放心と絶望が硬直した全身を包んでいた。

「1993年10月、サッカー日本代表」と書かれてある古いノートが手許にある。帰国直後、本人にインタビューを試みた。今読み返しても、中山の無念さが伝わってくる。
――聞きにくいことだが、あの(同点に追いつかれた)瞬間の気持ちは……。
「……ぼくはあの瞬間、自分の情けなさを痛感しました。なぜなら、あそこでベンチから仲間に“まだ時間はあるぞ!”と冷静に声をかけられなかったからです。たとえベンチにいても、ぼくはイラン戦のように振る舞わなければいけなかった。それができなかったのは、自分がまだまだ発展途上の証拠だということでしょう。今は神から与えられた試練だと思うことにしています」

 中山は忘れているだろうか。私はこの時、折りたたみ式のカサを彼にプレゼントした。インタビュー相手にプレゼントを持って行ったのは、後にも先にもこの時しかない。それくらいイラン戦でのプレーに深く感動したのである。自分の気持ちを、何かにたくそうとして折りたたみカサを思いついた。「人生、晴れた日ばかりじゃないから……」そう言って手渡すと、中山は例の人懐こい笑みを浮かべてこう言った。「雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ……くらいの強い気持ちが必要なんでしょうね。今回はワールドカップに出られなかったけど、30歳がダメなら34歳、34歳がダメなら38歳……諦めさえしなかったら、いつか夢はかなうと思っています」

 5年後、フランス――。1998年6月、日本は初めてワールドカップに出場したものの、アルゼンチンに続いてクロアチアにも敗れ、早々とグループリーグ敗退が決まった。やはりというべきか、世界の壁は厚かった。残るはリヨンでのジャマイカ戦のみ。グループリーグ敗退が決まった時点で、日本代表の目標は「悲願の初勝利」に切り替わった。そのためには、まず1点をとらなければならない。なにしろ2試合を戦い終えても、日本は依然としてスコアレスのままなのだ。遠いゴールは、改めてストライカー不在を浮き彫りにした。余談だが、岡田ジャパンは結果(ゴール)よりも手続き(システムや戦術)を大切にする空気があり、さながらそれは、ひとつ決め事をするのにハンコが5つも6つも必要だったり、まっさらな稟議書が役員の机に届くまでには真っ黒になっていたりするこの国の社会システムにも似て、ストレスを内包するものだった。0対2で迎えた後半29分、日本の初ゴールは中山の右足によってもらたされた。呂比須ワグナーのヘディングを、それこそ全身の力を右足に凝縮してネットに突き刺した。彼らしい実に泥臭い、だからこそ胸が震えるようなゴールだった。ゴールを決めた中山は、すっくと立ち上がって、同点、そして逆転を信じてセンターサークルに走った。5年前のイラン戦のシーンが、私の脳裡のスクリーンに上映された。
 イラン戦しかり、ジャマイカ戦しかり。中山のゴールはチームに勝利をもたらせるものではなかった。しかし、と思う。あの2つのゴールは、この国の代表が未来を築く上で、なくてはならない“捨て石”ではなかったか。

 一矢を報い、万兵を挙す――。魂のストライカーに、敬意を込めてこの一語を捧ぐ。

 今、サッカーをしている子たちにどのくらいの子が中山選手のようなメンタリティ(情熱?魂?愛情?執念?哲学?こだわり?夢?目標?)を持って日々サッカーに打ち込んでいるのでしょうか。偉大な先人から見習うべきは、華やかなプレーや綺麗なプレーばかりではないと私は思います。きっと、中山選手は少しの間「お休み」されたら、またいつかきっと、どこかのチームでゴールを追い求め始めるのだと私は期待しています。

 

この度、アスルクラロ沼津の現役選手のトレーニングをひとまずやめて、ジュビロ磐田のコーチとして活動する事に決めました。

2015年から2020年の6シーズン、ほぼリハビリで過ごしましたが、U 18のコーチをこの2年間させていただき、

日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会にも出場し、子どもたちの成長を見ることができた事を幸せに思います。

またいつか沼津に戻る事があるかもしれません。

その時は、よろしくお願いします。

ありがとうございました!!               2021年1月13日 アスルクラロ沼津HPより

 

サッカー部 MUSANISTA #121 『 さりし日々とこれから』

 年も明け、「さあ、今年も頑張ろう」に続く言葉が、「新型コロナウイルスの終息に向け、今年も頑張ろう」になるとは、なんとも悲しいことです。政府は再度、「緊急事態宣言」を出し、学校にも、部活動の原則中止、時差登校などが指示され、様々な面で影響を受けています。昨日の更新でもお伝えしたように、'FC MUSASHINO'はこの部活中止期間を過ごすにあたって「自主練習」と位置付け、各自でコンディションの維持をするように伝えています。前回は、完全に休校だったので部員に任せっきりでしたが、今回は学校に登校しているので確認はできます。各自今やるべきことをしてくれるよう、指示を出しています。

 

 さて、今回も緊急事態宣言が出され部活動ができないということで、HPを更新しています。前にもこんな形でHPを更新したことを思い出し、久しぶりにHPを見返していたら、こんなことを更新があったことを発見しました。

『街中を見ると、色んなところで「8割削減」の努力を目にします。販売店では、列に並ぶ人の間隔を社会的間隔(2m)に近づけるために目印が付けられました。レジの前には、透明なカバーが設置され飛沫感染を防ぐ対策がなされました。店舗によっては、入場制限を敷いて店内の人数を制限する対策を取っている所も出始めました。学校から帰宅する時には、暗い中をジョギングする人たちをよく見かけるようになりました。私達は、それぞれが”本気で”感染拡大予防対策に講じなければ、5月の連休明けから学校再開というのは、正直とても厳しいのではないかと感じ始めています。

 専門家のある人は、「今はまだオーバーシュート(爆発的な感染拡大)には至っていない。でも、このまま行けばそれは間違いなく免れない。」と話しています。そんな事になれば、現在でも大変な医療現場は益々切迫した状況になるでしょう。そうなれば、コロナウイルス以外で医療を必要としている人達さえも十分な医療を受けられず、苦しみ困る人が増えるでしょう。医療に携わる人達は今、自分や家族を顧みることなく私達の安心安全を保障してくれています。そうした人達を守るためにも、私達は行動を慎むべきだと思います。』
( 2020/04/12更新 MUSANISTA #52 『 80%off 』から抜粋 )

 1度目の緊急事態宣言が出されて間もないころ、感染予防拡大防止のために多くの場所で対応に追われました。いまや、間隔をあけさせていない販売店はないし、レジ前の透明なカバーが無いような店も数えるほどしかなくなっています。しかし、感染拡大の第3波はとどまることをしりません。これはなぜでしょうか。私は、やはり今よく言われている「コロナ慣れ」が大きな原因ではないか、と思います。各個人の「この程度なら大丈夫なのではないか」「みんなやっているし大丈夫ではないか」「店が開いているし大丈夫ではないか」という判断が、社会を動かし、この状況を生んでいると考えます。
 今、まさに、医療現場がひっ迫し、『コロナウイルス以外で医療を必要としている人達さえも十分な医療を受けられず、苦しみ困る人が増えるでしょう。』という状況になっています。さらに言えば、コロナウイルスで苦しんでいる人も入院できなかったり、ホテルに入れず自宅療養を余儀なくされている状態も出てきているそうです。

 

 巷では、「緊急事態宣言を出すのが遅かった」などという意見も出ているようですが、変えられるのはこれから先のことしかありません。逆に言えば、『今からの行動で未来を変えることができる』ということもできます。これを読んでいる皆さんも、「コロナ慣れ」に注意して、できる限り感染拡大防止に努めましょう。月並みな言葉ですが、ひとり一人の行動が、未来を変えていくことは間違いありません。今やるべきこと、今は我慢すべきことをしっかりと判断し、行動していくよう、お互いに気を付けていきましょう。

サッカー部 MUSANISTA #120 『 30日間 』

 FC MUSASHINOは、この部活中止期間を過ごすにあたって「自主練習」と位置付けました。少しでも何か自分自身でできる事をやって30日を過ごした場合と、何もせずにただ30日間過ごした場合とでは2月7日以降がまったく違ったものになるだろうという話をしました。たかが1日60分だけでも週に6日として約4週間=1,440分。普段の練習が2時間(120分)だとしたら12日分。少し頑張って1日90分のトレーニングをし続けられたら=2,160分、つまりは18日分のトレーニング時間を過ごせたことになるわけです。これがもしも、毎日120分のトレーニングを週6日、30日間続けられたなら…24日分にもなります。逆に考えれば、それだけの時間を無駄に過ごしてしまうことにもなるわけです。そこで、私たちは昨日から毎日「Self Training Note」を書くことを始めました。目的は、①コンディショニングの維持②トレーニング状況の把握③生活習慣の見直しです。予めその日の自主練習内容を自分で考え、実際に実施したトレーニング内容を記録して週の最後に1週間を振り返るという日誌です。早速、今日の放課後からそれぞれのノートを見せてもらいましたが、ある部員の昨日のトレーニングは10kmのランニングと筋トレ(腕立て伏せ/腹筋/背筋/スクワット)、ストレッチというメニューでした。中にはスマホアプリを利用して実際の走行距離や走行ルートを地図上に記録させられるようなものをやっていた部員もいました。大切なことは、継続すること。運動負荷を適切にかけること。コロナウイルス感染対策を忘れないことです。およそ30日間の、もしかしたらもっと長い道のりかも知れませんが…部活が再開される”その時”を信じて頑張り続けて欲しいと思います。

これは絶対に俺がやらなきゃ駄目なんだ

最も重要なのは体の中心…足腰である 強靭な足腰で体を安定させることは正確な攻撃と崩れぬ防御へと繋がる